HISTORY 丸亀の歴史

西讃岐の歴史・
文化の中心である丸亀

丸亀でつづられ広がる伝統文化。かつての城下町として栄えた丸亀。
今でもまちの中に残っている歴史を見て触って、人の心に触れる旅。
丸亀のまちを歩けば、知らなかった伝統や文化が見えてくる。

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京極家

現在の滋賀県である近江国の出身の京極家は、鎌倉時代までさかのぼる由緒を持つ名門大名家。鎌倉時代に北近江を領有し、京都の京極に居住したことから京極を名乗るようになりました。南北朝時代には、婆沙羅(バサラ)大名で名を馳せた京極高氏や、織田信長のもとで活躍するなど乱世を生き抜き、御家を再興させた戦国大名の京極高次がいます。江戸時代には、高次の孫にあたる京極高和が京極丸亀藩初代藩主となり、以後明治維新までの約二百十年の間、七代にわたり西讃岐一帯を治世し、現代の丸亀につながる礎を築きました。

四ツ目の紋

京極家家紋は、近江源氏として名高い先祖に由来する「四つ目結紋」。丸亀城キャッスルステイでは、この四つ目結紋を料理の御前やアメニティグッズ、玄関に掛ける暖簾など随所にあしらい、大名気分を鼓吹します。

丸亀城跡

築城から四百年以上の歴史ある丸亀城。石垣の高さと美しさで知られ「石垣の名城」とも名高い。現存する十二天守のひとつを持ち、日本の百名城にも選ばれました。大手門から見上げる天守は威厳に満ち、夕暮れの天守は優しさをまとって、心を和ませます。

重要文化財

大手一の門/二の門

大手一の門は1670年(寛文10年)に建築された櫓門。 藩政時代、時太鼓で城下に刻を知らせていたことから太鼓門とも呼ばれ、 国の重要文化財に指定されています。現在では江戸時代からの伝統を引き継ぎ、正午に太鼓が打ち鳴らされます。 天守と大手門が現存するのは全国で3城のみで、中でも太鼓門が通年時太鼓を打ち鳴らしているのは本城だけです。

史跡

日本一の高石垣

高く美しい曲線が特長で天守へ続く四層に積み上げた石垣の高さは日本一。 天守の白壁と石垣のコントラストは「石垣の名城」と評されるにふさわしい美しさです。

延寿閣別館

延寿閣別館は1933年(昭和8年)に市の迎賓館である「延寿閣」の西隣に建てられました。延寿閣別館には、東京麻布にあった京極家の屋敷から、建物の床まわり、天井、長押、欄間、飾り金具などの部材が使用され、往時の佇まいが残ります。延寿閣本体は、老朽化により解体されてしまいましたが、この別館も劣化が激しく存続を危ぶまれる中、 市民の強い想いに応えてこのキャッスルステイで改修工事が行われ、保存・活用されることになりました。

重要文化財

日本一小さい 天守

天守は、全国に12しか残っていない創建以来の姿をとどめる木造天守のひとつです。 三層三階と「日本一小さな天守」と言われていますが、均整がとれ、唐破風や千鳥破風を美しく配した建造物です。国の重要文化財に指定されています。

中津万象園

京極丸亀藩二代藩主京極高豊が別邸として、ここ中津に築庭された大名庭園。庭の中心には京極家先祖の地である近江の琵琶湖を模った八景池を置く。藩主たちの望郷の思いを想像しながら広大な庭園を歩く。

観潮楼

江戸時代より今に伝わり現存する日本最古の煎茶室といわれる「観潮楼」。 ここから瀬戸内海の潮の満ち引きが見える煎茶の茶亭でした。

塩飽諸島と本島

本島、広島、牛島、手島など、大小28の島々からなる塩飽諸島。 「塩飽(しわく)」とは、製塩過程での「塩焼く」からきているとも、激しい潮流を意味する「潮湧く」からきているともいわれています。 なかでも、本島は塩飽水軍の本拠地として、共同統治を行った塩飽水軍の政所、 国指定史跡の「塩飽勤番所」や古い町並みが残る丸亀市塩飽本島町笠島伝統的建造物群保存地区など数多くの歴史的資源が今も大事に守り続けられており、 海に生きた人々の息吹きを伝えています。

塩飽水軍

塩飽水軍は、信長や秀吉、家康など時の権力者たちから物資輸送などで貢献した功により650人の水夫が1250石の所有を与えられた朱印状を授かり、共同統治してきました。また、幕末に太平洋を渡った咸臨丸の乗組員の多くが塩飽の人達であり文字通り生粋の海の民です。

【国選定重要伝統的建造物群保存地区】塩飽本島町笠島伝統的建造物群保存地区

北側に港が開け、三方は丘陵に囲まれているこの港は塩飽諸島の中でも最良のものとされ、中世以来、塩飽水軍や塩飽廻船の根拠地として繁栄した。当時の町の形態がよく伝えられ風情ある町並みが残されています。

塩飽勤番所跡

天領であるが島内自治を行っていた塩飽諸島の政務を取り仕切る政庁。現在の建物は1860年(万延元年)に改築されたもの。全国的にも珍しく、勤番所と言われる建物で現存しているのはこの本島だけ。現在は、歴史資料館として公開されており、朱印状をはじめ貴重な歴史資料が展示されています。国の史跡に指定されています。

金毘羅詣り

金毘羅詣りは江戸時代中期より、京極家をはじめ多くの四国大名たちに信仰され、その後全国へと広がっていきました。 江戸中期には「一生に一度は、こんぴらさんへ」と盛んになり、なかでも特に丸亀は参拝の玄関口として最も栄え、多くの参拝者が訪れました。

金比羅宮

金刀比羅宮は、こんぴらさんという愛称でも親しまれており、古来より海の神様、五穀豊穰・大漁祈願・商売繁盛など広範な神様として全国津々浦々より、信仰をあつめてまいりました。 参道口から御本宮までは785段、奥社までは1,368段の石段が続いていることでも有名です。

金毘羅街道

金毘羅詣りが盛んになった江戸中期以降、金毘羅宮へ続く五つの街道に多くの参拝者が訪れ、中でも丸亀街道は最も栄えた街道でした。 丸亀港の太助灯籠から琴平の高灯籠までの150丁(約12Km)の道のりは今もその面影を残しています。

丸亀うちわ

金毘羅参詣の玄関口 丸亀が生んだ伝統工芸。全国の9割のシェアを占める団扇は今も丸亀を代表する伝統工芸です。

江戸初期に金毘羅参詣の土産物として、朱赤に丸金印の渋うちわが作られたのが始まりといわれています。 天明年間(1781~1789年)には、丸亀藩江戸詰大目付瀬山登が丸亀藩の下級武士の内職として奨励したこともあり、 丸亀の代表的な地場産業として発展を続けました。現在の生産量は年間約8,300万本、全国シェアの90%を誇り、 平成9年5月、国の伝統的工芸品に指定されました。